父は、私に事業を継がせたかったようです。ですから、同じような商売や事業をされているところから養子を取りたい。あるいは事業につながるようなところに嫁がせたい。わたしは、そんな父に反抗し、今の主人のところへそれこそ大反対を押し切って嫁ぎました。26歳でした。
式は挙げましたが、ほとんど駆け落ち同然のような結婚生活でした。当時主人が持ってきてくれる月給は10万円にちょっとおまけがつく程度。家賃は5万円弱。親戚も友達もいない福岡の地で、スーパーのチラシを見ては一円でも安い所へチャリンコでかけて行っては必要な物だけを買ってきていた頃が懐かしいです。生活は苦しかったですねえ。本当に。
でもあの3年半の体験が、私に今までいかに恵まれた環境に育っていたかを教えてくれ、お金の大切さも、「反後の長女」という肩書きの効かない世界で「波戸内人美」として自立する心も教えてくれました。
一方父は、平成元年熊本の玉名という地にある老人医療を行っている、当時とても悪名名高かった「明星病院」を、家族や周囲全員の反対を押し切り、その経営を引き受けます。私には二人の妹がいますが、その一人が医者だったため、その妹の将来のために、父はこの病院経営に乗り出したのです。もちろん、本体の「かねくら」の少しでもためになればといったこともあったと思います。
平成3年病院の方は、「医療法人 悠紀会」として生まれ変わり、妹やスタッフの方達の並々ならぬ努力のお陰で着々と地域に根ざした病院として発展して行きました。
しかし、本体の「かねくら」は、すぐ近くに架かる長六橋の架け替えのため、国道3号線からの直接の乗り入れが出来なくなったり、市の政策で周辺の卸屋さんは、ほとんど流通団地へと移転が進んでおり、ますます活気をなくしていました。
その頃、30歳を目の前にして私達夫婦も人生の転機を迎えていました。
父と反後屋本店時代からずっと一緒に頑張ってこられた、父の高校時代の同級生「上田 豊さん」が(当時のかねくらの専務)、単身福岡へ私達を説得に来られました。
「波戸内君。人美ちゃん、もういいだろう。帰っておいで!お父さんを「かねくら」を手伝ってあげたらどうね」
考えに考えた末、主人は「帰熊する。当時勤めていたNECを辞め商売を手伝う。」決断を下しました。平成3年8月私達は熊本へ帰ってきました。
しかし、「かねくら」としては、私が辞めた当時からあまり大きな変革も起こせず、とうとうジリ貧の状態に入りつつありました。私達が帰ってきたということで、一時的に社内外の雰囲気も良くなりましたが、残念ながらもうその力も及びませんでした。
一方、玉名の病院では、妹が一人で切り盛りする状態でした。父は経営者としては経歴も長いですが、医療はもちろん素人です。なんとか妹の負担を軽く出来ないかと一番下の妹も病院に勤め、私達夫婦も妹の力になれるよう出来るだけ努力しましたが、やはり素人。肝心のことになると力及びませんでした。ただ妹の努力の甲斐あって、病院はどんどん改善されスタッフの方達の協力を得て、私が言うのもなんですが、短期間に良くここまで…というくらい生まれ変わりました。
病院の経営状態に気をよくした父は、今度は、特別養護老人ホームの経営に手をあげ認可が下りようとした、平成5年5月、過労がたたり妹が亡くなりました。29歳でした。
何はなくても生きていて欲しかったです。
ただそこにいて、一緒に些細なことを喜んでほしかったです。
どんなに泣いてもどんなに嘆いても、もう妹は帰ってきませんでした。
最愛の妹でした。
頑張って頑張って…頑張りつづけて妹は、私達家族にたくさんの優しさを遺していってくれたと思います。
「老人医療がようやく面白くなってきたよ!」そう語っていた妹の白衣姿が思い浮かびます。
もっと一緒に遊びたかったね。もっと一緒においしい物食べたり、おいしいお酒のみたかったね。
妹が遺してくれた病院の存続をかけ、私達家族は、日夜奔走しました。
医療は、人の命を預る重大な責任があります。なんと言っても医療法に基づき許認可の世界でもあります。その両面を図りながら、父をささえ続けたのは主人であり、また病院のスタッフの皆さんの頑張りでした。
「美紀院長が見守ってくださっているから…」そういって、皆さんが一丸となって病院の医療・介護の質を高めるため努力努力の日々でした。
奔走し、奔走する日々…そして病院の方はしだいに落ち着きを取り戻してゆきました。
守ってくれてたんだよね。ありがとう!美紀!
一方「かねくら」は、「寝具の卸売業」としては事業としての終焉のときを迎えようとしていました。
「市野先生」に相談しても「株主・取締役会」でも、とうとう『廃業』という最悪の決断をせざるをえないということになりました。…残念で残念でたまらない。けれど、まだ従業員さんに力があり再就職も可能で、仕入れ先にも全て支払いを終え、また株も換金し、退職金が払えるうちに、その余力があるうちに廃業を選択しようということでした。お得意様にもこれ以上ご迷惑をかけないためにも。
反後屋本店からずっとその趨勢を見守ってきた私としては、身を切られるような思いでした。
「やめたくない。やめたくない。まだできる。まだやれる!」
「私の代で廃業だなんて…何のために帰って来たのか…これじゃあ店を閉めるために、最後の幕引きをしに帰って来たようなもんじゃないか…いやだ。やめたくない!やめたくない!」
でも、力及びませんでした。妹が亡くなった翌年、平成6年3月かねくら廃業。私はその後、残った不動産をどう活かして「かねくら」を起死回生に導くのかという大きな命題を背負って長い残務整理に入りました。32歳でした。
『妹の死』・『廃業』
事業とは何でしょうか?
事業の存続とは何でしょうか?
人は生きている間に何を成すべきなのでしょうか…
人は何のために生きているのでしょうか?
そして私は、翌年、結婚8年めにしてようやく妊娠し「初めての出産」を体験します。
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